2015年01月30日

1911の歴史 その3



コルト・ガバメント1911が設計されてからおよそ100年。その生い立ちから今日までのいきさつを書き綴ったレポート。



1911ピストルの歴史 その3

1941年12月7日、パール・ハーバーへの日本軍の空襲によって、合衆国は第二次世界大戦に参戦した。この衝突はアメリカの歴史の中でも最も大きな戦争であった。16万人ものアメリカ男性および女性が武装兵力として派兵された。1911モデルはほぼすべてのアメリカ軍兵士の一般的サイドアームとして、陸上で、海で、空で戦った。軍事製品としての1911モデルの数は3万丁にのぼる。長年にわたって生産された数万丁のブローニング・マシンガンやBARの数を加えると、ジョン・M・ブローニングの設計した銃が自由を守り、暴虐を撃破するのに重要な役割を果たした事は陽を見るより明らかだ。1911モデルはその後も名誉と共にアメリカの軍人、法執行官に採用され続けた。朝鮮戦争、ベトナム戦争その他の紛争を含む多くの20世紀の出来事で活躍した。

第二次世界大戦が終わって数万人の軍人が世界中の戦場から帰ってきた。彼らは平和と繁栄の新しい生活を満喫する事に飢えていた。戦後の繁栄はリクリエーション・タイムにおける様々なレジャーを発達させた。そして、アメリカにおけるシューティング・スポーツは文字通り大ブームとなった。多くの市や町、大学、高校、工場や地域のシューティング・レンジに、シューティング・クラブやリーグが続々と現れた。

その当時人気のあった射撃競技会の一つがNRAブルズアイ・ピストルだ。これはミリタリー・ピストル・クオリフィケーション・コースをモデルにしたもので、数万人のGI達に教えられたものだ。ブルズアイ・ピストルは22リムファイア・ピストル、センターファイア・ピストル、そして45ピストル(たいてい1911)についての専門的技術を要求されるものだ。戦後経済はまた、1911の一般性を確立させることとなった。競技のセンターファイア部門でも45部門でも1911が使われる事が多かったのである。つまり軍の払い下げ品として、またGI達の持ち帰った戦場でのトロフィーとして、数多くの1911が難なく利用可能だったのである。
軍で銃の内側外側を学んだピストル・スミスたちは1911をいかにしてターゲット・レンジでの正確な鋲打ち機にするか、試み始めていた。しばしば彼らの試みの前進はターゲットの真ん中に一つ穴を開けた。パッチマイヤーやキングス・ガン・ワークスといった中核サプライヤーたちは、より正確にカスタマイズされた1911への要望をすぐに満たした。

公式なブルズアイ競技が戦後期に人気を博している一方で、もう一つの動きが確実に影を伸ばしていた。プラクティカル・シューティングと呼ばれるものである。1950年代以前の長い期間、警察官のコンバット・ファイアアーム・トレーニングの教義の多くは、照準を着けないあるいは本能的な片手撃ちの腰だめの抜き撃ちによるファスト・ドロウに基づいたものであった。このテクニックは超近接戦ではいくらかの応用ができたが、距離が開くとそのヒット・ポテンシャルは急激に減少した。

腰だめ射撃の限界に最初に気づいた者の一人が、若き海兵隊員ジェフ・クーパーである。彼は敵をストップさせるには、敵が攻撃を終える前に、正確で性急な効果的一撃を与えなければならない、ということを理解していた。クーパーの太平洋地域における実戦経験と独創的考えは、彼を世界中でモダン・テクニックと呼ばれるものに導いた。

今日のベスト・ピストル・シューターたちの弁によると、クーパーの方法はスムーズなワンハンド・ドロウから強力なツー・ハンド・ホールドへと動き、その後ターゲットに対する眼の高さでのクイックなサイト・アライメントを行う。そして正確に性急な発射を行う、というものだ。モダン・テクニックがほとんどのハンドガンで使える一方で、その効果的アドバンテージをフルに活用できる理想的な銃こそ、45ACP1911モデルだった。実戦に打ち勝つだけのパワーと正確さそして信頼性を兼ね備えたただ一つの銃。
クーパーはモダン・テクニックのコンセプトをラテン語で体系化した。ディリジェンティア・ビス・セレリタス(D・V・C)訳するならば正確さ・力・スピードである。

実りの多いクーパーの著作と、課題に応じた指導は、チャールズ・アスキンズ、レイ・チャップマン、ジャック・ウィーバー、セル・リードその他の人々を通じて広がり、警察や軍の全世代のトレーナーたちに考えを形成する助けとなった。それは今日、コンバット・ピストル・シューティングのトレーニング教義の事実上の基礎となっている。モダン・テクニックの広がりはまた、1980年代から1990年代のアメリカ警察官がリボルバーからオート・ローディング・ピストルへ転換する大きな要因ともなった。

クーパーはまた、1976年のインターナショナル・プラクティカル・シューティング・コンフェデレーションの立ち上げに大きな役割を果たし、自ら初代会長となった。IPSCは組織化された競技の枠組み作りをし、あっというまに熱心なピストル・シューターの千人に百人が選択する競技フォーマットとなった。公式なプラクティカル・シューティング・スポーツの分派が近年花開いている。カウボーイ・アクション・シューティング、IDPA、USPSA3-ガン、その他いろいろである。

1911モデルを取り巻くパーツ、アクセサリー、カスタム・ガンスミシング、トレーニング・センターそして公式競技などに基づく産業は成長してきている。そして今日、この1911デザインは世界中で競技ピストル・シューターのスタンダードとして輝いている。事実、モダン・テクニック、プラクティカル・シューティングそしてコンシールド・キャリーの出現は、1911ピストル・デザインにおいて事実上の興味の生まれ代わりに帰結した。

プラクティカル・シューティングの発達と共に、個人セキュリティについて偉大なる目覚めがやってきた。そして自身の安全に関する責任を取るという事についても。1980年代と1990年代の犯罪率の上昇は市民のコンシールド・キャリー・ライセンス取得という国家的傾向の原因ともなった。今日、連邦のほとんどの州ではコンシールド・ファイアアームズの携行許可にいくつかのフォームを用意している。そしてこれら数万人のCCW認可者の多くが、1911モデルのフォームを選択している。しばしばこれは簡単な携行とコンシールメントのためにコンパクト・バージョンとなっている。

1985年。アメリカ軍は9mmM9ピストル・デザインをスタンダード・サイドアームとして採用した。NATO連合国とのより強力な弾薬の相互運用性を目指しての事である。千人のうち百人の軍人が忠実にも自らの1911を見た。そしてこれは疑う余地のない所であるが、1911が採用されてきた7つの期間の記憶に対して多くの涙が流された。

ああ、苦しかったかつてのコンバット・レッスンは今や大輪の花を咲かせた。9mmボール弾カートリッジの貧弱なストッピング・パワーは今となっては説得力を持たない。初めて紹介された1902年当時とは状況が違うのだ。この観点からアメリカ軍はその特殊部隊の武装に再び由緒ある1911モデルと45ACP弾を配備した。1993年のアメリカ軍デルタ・フォース作戦指揮官に対して更なる2つのメダル・オブ・オナーが授与された。ゲーリー・ゴードン上級曹長とランドル・シャグハート軍曹の二名。ソマリアでの行動に対してのもので、これは後に不朽の名作「ブラック・ホーク・ダウン」として出版および映画化された。シャグハートが致命的な傷を負った後、ゴードンは1911を使って傷ついたヘリコプター・パイロットを守るため最後まで戦い続けた。

今日、アメリカの立派な人たちが過激なテロリストによって危機にさらされる時、救いは彼らの腰あるいはMolleギアにある1911である。100年になんなんとする1911モデルのデザインはかつてなく一般的になり、その他のすべてのオート・ローディング・ピストルが測られる時スタンダードとして輝くだろう。

私たちはジョン・M・ブローニングをそのように考えている。




3回にわたってお送りした1911の歴史、いかがだったでしょうか。改めてその優秀さを再確認した方も多いのでは?RIPジョン・M・ブローニング
終わり










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2015年01月22日

1911A1の誕生その2



コルト・ガバメント1911が設計されてからおよそ100年。その生い立ちから今日までのいきさつを書き綴ったレポート。



1911ピストルの歴史 その2

このミリタリー・テストに適うものとして浮上したコルト・ピストルはジョン・M・ブローニングの設計によるものだった。19世紀そして20世紀を通じて、疑いのない革新的で先見の明のある銃器設計者として、ジョン・M・ブローニングは「オートマチック・ファイアの父」としての名声を博し続けた。ブローニングの設計者としての天才的才能はピストルのみにとどまらなかった。彼はブローニング・オートマチック・ライフル(BAR)、数多くの30口径および50口径のブローニング・マシンガン、そして伝説のブローニング・ハイパワー。これはハイキャパシティ・オート・ローディング・ピストルとして成功した最初のものであり、軍用サイドアームとして瞬く間に世界基準となった。

アメリカ軍ピストル・トライアルのために、作動におけるショート・リコイルの原則に従ってジョン・M・ブローニングが設計したのは、マガジン装填式の、シングル・アクション、セミオートマチック・ピストルだった。これはマニュアルおよびグリップ・セフティを備えており、耐久性、シンプルさ、そして信頼性においてその当時のいかなるピストル・デザインもかなわないレベルの高いものであった。事実、1910年にジョン・M・ブローニングの個人的な監修のもと行われた2日間にわたる6000発発射テストにおいて、サンプル・ピストルは熱を持ったため、バケツの水に漬けられたが射撃を続ける事ができた。ブローニングのサンプル・ピストルはなんらの故障もみせずにテストをパスした。

騎兵隊がそのピストルの最初の採用部隊であったために、いくつかの特徴的デザインが盛り込まれた。例えばグリップ・セフティやランヤード・リングが騎馬兵によって付け加えられた。(騎馬兵というのは、暴発により自分の馬を撃ってしまうとただの歩兵になってしまうのである。)このブローニング・ピストル・デザインは1911年3月29日にアメリカ陸軍によって公式に採用され、そのため、公式にモデル1911ピストルとして知られるようになった。アメリカ海軍と海兵隊は1913年にブローニングの設計によるピストルを採用した。

ブローニングの設計した1911ピストルは1916年メキシコにおいて実戦で試された。当時メキシコは革命で苦しんでおり、最も有名な反逆者はパンチョ・ビラであった。1916年3月9日。ビラと彼の仲間たちは、ニューメキシコのコロンバスの町を襲い、略奪の上火を着けた。この件で18名のアメリカ軍兵士と市民が犠牲となった。反逆者ビラのさらなる攻撃はテキサスでも起こり、さらに多数のアメリカ軍兵士の犠牲者を出す事となった。

この攻撃への報復として、大統領ウッドロウ・ウィルソンは将軍ジョン・J”ブラック・ジャック”パーシュイングに対し、5000名に及ぶアメリカ軍兵士を率いメキシコにおいてビラを捕えるよう命じた。アメリカ軍リーダーのニュー・ジェネレーションの多くが、この戦いにおいて、初めての実戦経験を積む事となった。その中には将来を有望視される若き中尉、ジョージ・S・パットンも含まれていた。厳しい遠征にも関わらず、ビラを捕える事は出来なかったけれども、それは多くの新しい軍事テクノロジーの大きな実戦テストとなった。飛行機、無線電信機、発動機付トラックによる運搬、そして1911ピストルである。

その翌年、合衆国は第一次世界大戦のヨーロッパ戦線に参戦する事となった。再びパーシュイング将軍に率いられた合衆国軍は、カナダ、フランス、イギリスからの部隊を加え、西部戦線においてドイツ軍を押し戻すべく戦った。のべ1万人以上のアメリカ軍兵士がこのワールドワイドな衝突に派兵された。

グレート・ウォーとしての第一次世界大戦は間もなく、新兵器と流行おくれの戦略の残酷な対決である事が証明された。西部戦線における多くの地上戦は塹壕作戦であった。つまり小さなユニットでの急襲と近接戦闘が一般的な戦略であった。1911モデルは課せられた課題に期待以上の力を発揮しすぐにアメリカ軍兵士のお気に入りとなった。第一次世界大戦から登場した新兵器としては他に戦車、戦闘機、速射砲、マシンガン、毒ガスそして潜水艦などがある。

戦後期間にベーシック1911モデルにわずかな改良が加えられた。サイトの変更、アーチ状のメイン・スプリング・ハウジング、より短いトリガー、グリップ・セフティ・スパーの膨大化、そしてその他デザインのエルゴノミック化である。正確にはこれらの改良は1924年に終了し、モデル1911A1が誕生した。これらの改良が整って間もなく、ジョン・M・ブローニングは心臓発作のため亡くなった。1926年11月26日、ベルギーのハーストルにあるファブリキュー・ナショナーレ(FN)の工場でである。

合衆国が次第に世界のミリタリー・パワーとして大きくなるにつれ、1911モデルは多くの軍事衝突を経験した。カリブ海や中南米での手を焼くやっかいな紛争もこの中に含まれている。これらの介入は、政治的、社会的および経済的安定を発達させるために必要だったと考えられており、バナナ・ウォーとも呼ばれる。

この時期までに1911モデルは国中の警察官のお気に入りのサイドアームとしても定着するようになっていた。最初は45ACPで、後には38スーパーで。ロー・エンフォースメントの中で1911の特記すべき使用者としてはテキサス・レンジャース、国境警備隊、ATFやFBIなどがあげられる。

次回へ続く










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2015年01月16日

1911のいきさつ その1



コルト・ガバメント1911が設計されてからおよそ100年。その生い立ちから今日までのいきさつを書き綴ったレポート。今週から三回にわたってお送りします。



1911ピストルの歴史 その1

ジョン・M・ブローニングの古典的設計、その歴史に関する詳細な観察
ジョン・ブローニングの比類なき1911ピストルに対する、この特別なヒストリカル・トリビュートはブローニングの従業員であったスコット・エンゲンによって書かれた。スコットは彼自身ピストル競技シューターであり、“かつて知られた世界で最も偉大なファイア・アーム・インベンター”の終生の崇拝者でもある。

1911モデル45口径オートマチック・ピストル。つまり、世界で最もリスペクトされているハンドガン、常に多くの権威から、最高のサービス・ピストル・デザインと指定されてきた1911ピストルの歴史。ブローニング1911はそのもう一つの革命的銃であった。常に、最高に偉大な銃設計者であり、今日のブローニング・アームズ・カンパニーの設立者、ジョン・モーぜズ・ブローニングによるものだったのである。

この偉大な遺産は今日、ニュー・ブローニング1911-22ピストルに反映されている。オリジナルの1911ピストルに遅れること100年。ブローニング1911-22は誇り高いUSAメイドだ。ユタ州オグデンの僅か数マイル南に位置する第一級の工場で生産されている。これはジョン・M・ブローニングが住んだ街であり、彼の天才がそのすべての偉大な銃器発明を開始した場所でもある。

しばらくの間、オリジナルのモデル1911 .45オートマチックの豊かな歴史を探検しよう。そして世界で最も偉大なハンドガンがいかにしてなったかを発見しよう。

1911についてのいかなる完璧なヒストリーも、この時点あるいはこの伝説的な年より少し前の時点から語られ始めるべきである。これは地球の反対側のフィリピンでの出来事である。つまり、この熱帯の島において、アメリカ軍兵士と海兵隊たちは地域の狂信的反乱者との戦闘になりつつあった。そして、効果的で大口径のディフェンシブ・ピストルの緊急な必要性を苦い経験から悟らされる事となった。

1898年2月。ハバナ港での戦艦メイン号の沈没という目覚めによって、合衆国はスペインとの戦争を開始した。キューバの侵略に加えて、アメリカ海軍はスペイン艦隊と交戦し、大勝し、1898年3月マニラ湾においてこれを打ち破った。これは海軍の歴史に残る圧倒的な勝利であった。アメリカ陸軍はスペイン植民地政府を撃破し島を占領すべく、海岸線へと向かった。

以前からスペイン人に対する武装抵抗を見せていた南部諸島のモロ族はゲリラ戦法を用いて15年にもわたってアメリカ軍とも交戦した。戦闘の多くは近接戦であり、そこではモロ族の長刃のクリス・ナイフが最終兵器として用いられた。

その当時、アメリカ軍兵士たちは30口径のクラッグあるいは、スプリングフィールド・ボルトアクション・ライフル、そして38口径のダブルアクション・リボルバーで武装していた。30口径ライフルが攻撃者をストップさせるのに効果的である事を証明する一方で、合衆国兵士のハンドガンはがっかりするほどストッピング・パワーに欠けている事を露呈した。モロ族戦士は様々なピストル弾を受け止め、アメリカ軍兵士に襲いかかった、という多数のレポートが寄せられた。この状況にアメリカ軍兵士のモラルは明白に悪化した。

早急なコンバット・ピストルへの要求が高まり、45口径の1873モデル・コルト・リボルバーの古いストックがインディアン戦争の時代から呼び戻され、実戦に採用された。攻撃者を一発で仕留めるストッピング・パワーに関してよい成績を早くから示していたのである。

モロ族との戦場での経験は、有名な1904年のトンプソン・レガード・テストを行う結果となった。このテストにおいて当時のあらゆるミリタリー・カートリッジが、その貫通力、ストッピング・パワー、エネルギー伝達などについて、生きている、あるいは死後の牛をターゲットに用いてテストされた。現代の基準からすれば多少主観的ながら、このテストは以下のような公式見解をもって締めくくられた。「弾丸については近距離において、ミリタリー・ピストルまたはリボルバーとして十分なショック効果とストッピング効果をもつものとして、その口径は45口径以上のものとする。」

この時期までに、2つの新しい軍用技術が発達してきていた。無煙火薬と自動装填式ピストルだ。1906年にアメリカ軍は、法令局のウィリアム・クロッティアー将軍の指揮のもと、45オートマチック・コルト・ピストル(45ACP)なる新しくデザインされたカートリッジにマッチする幾つかのピストル・デザインの評価を始めた。このミリタリー・テストはその後数年にわたって続けられ、一丁のコルト・ピストルが明らかに好ましいものとして表面に現れだした。
次回へ続く。










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2015年01月09日

コルト博物館が実現へ



コルト博物館が国立歴史公園事業として承認される

byグレゴリー・ラドキー
2014年12月13日

ハートフォードにおいて、サミュエル・コルトとその果たした役割、つまり彼の銃器と工場が産業革命において達成したものをコルトヴィル国立歴史公園が記念する、との最終承認が金曜日に発表された。
新しい国立歴史公園のプランは一万平方フィートのビジター・センターを含むものだ。ハートフォードの特徴的建造物である、青い玉葱型ドームの中の古いコルト工場の中に作られる。一台のエレベーターと見学プラットフォームからは眼下に工場が一面に見渡せ、ドームも訪れる事ができる。歴史公園がいつオープンするか、詳細は未定だ。
「今日、アメリカのイノベーションと手工業の遺産を維持しているのはコルトヴィルなのです。」と、アメリカ代表のジョン・ラーソンは言う。彼はハートフォードに国立歴史公園を設立しようと努力を注いできた。「この計画が成功するまでにはまだ仕事が残されています。私は国立公園事業と共に働ける事を望んでやみません。」
コルトヴィルのための資金は5千7百7十万ドルにのぼる。
ラーソンと2人のコネチカット議員、リチャード・ブルメンタルとクリス・マーフィーは、国立公園事業がコルトヴィル・プロジェクトのための資金を含むものである事を確かにするために働いていくつもりである、と述べた。
ラーソンは連邦、州そして地域の公的機関が公園の具体的な計画を練っていくために、力を合わせるべきだ、と語った。
リチャード・マーレイはコネチカット歴史学会のための調査研究機関の長である。彼は言う。「コルトヴィル国立公園は息の長いプロジェクトだ。一夜にしてなるものではない。」「何年も何年もかけて、産業と文化と歴史をあらわすモデルとはどんなものか、確認の作業を行っていきたい。」
マーレイはコルトヴィル・プロジェクトが、コネチカットとその他の地域における産業革命のインパクトについて、大変重要なストーリーを語るものになると信じている、それは19世紀20世紀のイノベーションのすべてのプロセスをシンボライズする事ができるものである、と語った。
2009年のコルトヴィル国立公園設立のための連邦研究会において、調査者はコネチカット歴史博物館および、ワッズワース美術館は、コルト銃器および機械、サミュエル・コルトとエリザベス・コルトそしてコルト・ファイアアームズ・カンパニーに関する思い出の品を保有している、と記している。
「どちらの博物館も国立公園事業に協力してコラボレーションするよう指摘された。」と報告されている。
マーレイは、コネチカット歴史博物館には最も重要なコルト銃器コレクションが存在している、と述べている。










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2015年01月01日

WSCより新年のご挨拶申し上げます。



WSCより新年のご挨拶申し上げます。

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
旧年中はいろいろとお世話になりました。本年は益々パワーアップしてコンバット・シューティング、カスタム・ガン、セルフ・ディフェンス、コンペティティブ・シューティング、ロー・エンフォースメント、スナブノーズ・リボルバー、アメリカ銃社会などに注目して行きたいと考えております。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。m(_ _)m

皆様にも幸多き一年でありますように。


  


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