2015年01月22日

1911A1の誕生その2

1911A1の誕生その2


コルト・ガバメント1911が設計されてからおよそ100年。その生い立ちから今日までのいきさつを書き綴ったレポート。



1911ピストルの歴史 その2

このミリタリー・テストに適うものとして浮上したコルト・ピストルはジョン・M・ブローニングの設計によるものだった。19世紀そして20世紀を通じて、疑いのない革新的で先見の明のある銃器設計者として、ジョン・M・ブローニングは「オートマチック・ファイアの父」としての名声を博し続けた。ブローニングの設計者としての天才的才能はピストルのみにとどまらなかった。彼はブローニング・オートマチック・ライフル(BAR)、数多くの30口径および50口径のブローニング・マシンガン、そして伝説のブローニング・ハイパワー。これはハイキャパシティ・オート・ローディング・ピストルとして成功した最初のものであり、軍用サイドアームとして瞬く間に世界基準となった。

アメリカ軍ピストル・トライアルのために、作動におけるショート・リコイルの原則に従ってジョン・M・ブローニングが設計したのは、マガジン装填式の、シングル・アクション、セミオートマチック・ピストルだった。これはマニュアルおよびグリップ・セフティを備えており、耐久性、シンプルさ、そして信頼性においてその当時のいかなるピストル・デザインもかなわないレベルの高いものであった。事実、1910年にジョン・M・ブローニングの個人的な監修のもと行われた2日間にわたる6000発発射テストにおいて、サンプル・ピストルは熱を持ったため、バケツの水に漬けられたが射撃を続ける事ができた。ブローニングのサンプル・ピストルはなんらの故障もみせずにテストをパスした。

騎兵隊がそのピストルの最初の採用部隊であったために、いくつかの特徴的デザインが盛り込まれた。例えばグリップ・セフティやランヤード・リングが騎馬兵によって付け加えられた。(騎馬兵というのは、暴発により自分の馬を撃ってしまうとただの歩兵になってしまうのである。)このブローニング・ピストル・デザインは1911年3月29日にアメリカ陸軍によって公式に採用され、そのため、公式にモデル1911ピストルとして知られるようになった。アメリカ海軍と海兵隊は1913年にブローニングの設計によるピストルを採用した。

ブローニングの設計した1911ピストルは1916年メキシコにおいて実戦で試された。当時メキシコは革命で苦しんでおり、最も有名な反逆者はパンチョ・ビラであった。1916年3月9日。ビラと彼の仲間たちは、ニューメキシコのコロンバスの町を襲い、略奪の上火を着けた。この件で18名のアメリカ軍兵士と市民が犠牲となった。反逆者ビラのさらなる攻撃はテキサスでも起こり、さらに多数のアメリカ軍兵士の犠牲者を出す事となった。

この攻撃への報復として、大統領ウッドロウ・ウィルソンは将軍ジョン・J”ブラック・ジャック”パーシュイングに対し、5000名に及ぶアメリカ軍兵士を率いメキシコにおいてビラを捕えるよう命じた。アメリカ軍リーダーのニュー・ジェネレーションの多くが、この戦いにおいて、初めての実戦経験を積む事となった。その中には将来を有望視される若き中尉、ジョージ・S・パットンも含まれていた。厳しい遠征にも関わらず、ビラを捕える事は出来なかったけれども、それは多くの新しい軍事テクノロジーの大きな実戦テストとなった。飛行機、無線電信機、発動機付トラックによる運搬、そして1911ピストルである。

その翌年、合衆国は第一次世界大戦のヨーロッパ戦線に参戦する事となった。再びパーシュイング将軍に率いられた合衆国軍は、カナダ、フランス、イギリスからの部隊を加え、西部戦線においてドイツ軍を押し戻すべく戦った。のべ1万人以上のアメリカ軍兵士がこのワールドワイドな衝突に派兵された。

グレート・ウォーとしての第一次世界大戦は間もなく、新兵器と流行おくれの戦略の残酷な対決である事が証明された。西部戦線における多くの地上戦は塹壕作戦であった。つまり小さなユニットでの急襲と近接戦闘が一般的な戦略であった。1911モデルは課せられた課題に期待以上の力を発揮しすぐにアメリカ軍兵士のお気に入りとなった。第一次世界大戦から登場した新兵器としては他に戦車、戦闘機、速射砲、マシンガン、毒ガスそして潜水艦などがある。

戦後期間にベーシック1911モデルにわずかな改良が加えられた。サイトの変更、アーチ状のメイン・スプリング・ハウジング、より短いトリガー、グリップ・セフティ・スパーの膨大化、そしてその他デザインのエルゴノミック化である。正確にはこれらの改良は1924年に終了し、モデル1911A1が誕生した。これらの改良が整って間もなく、ジョン・M・ブローニングは心臓発作のため亡くなった。1926年11月26日、ベルギーのハーストルにあるファブリキュー・ナショナーレ(FN)の工場でである。

合衆国が次第に世界のミリタリー・パワーとして大きくなるにつれ、1911モデルは多くの軍事衝突を経験した。カリブ海や中南米での手を焼くやっかいな紛争もこの中に含まれている。これらの介入は、政治的、社会的および経済的安定を発達させるために必要だったと考えられており、バナナ・ウォーとも呼ばれる。

この時期までに1911モデルは国中の警察官のお気に入りのサイドアームとしても定着するようになっていた。最初は45ACPで、後には38スーパーで。ロー・エンフォースメントの中で1911の特記すべき使用者としてはテキサス・レンジャース、国境警備隊、ATFやFBIなどがあげられる。

次回へ続く










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Posted by WERTY  at 05:46 │Comments(0)トリビア

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