2019年02月28日
ビル・ウィルソンのビギニング
今回は20万アクセスを感謝して、ウィルソン・コンバットのビル・ウィルソンの著作「The Combat Auto(1991年初版)」から第1章を訳出してお送りします。
既に2章カスタム・コンセプト(カテゴリー・カスタムガン、2014/2/6掲載)、3章コンバットピストル(カテゴリー・カスタムガン、2017/5/30掲載)も訳出してありますから、合わせてご一読下さい。

ザ・ビギニング /ビル・ウィルソン
ハンドガンは常に私を魅了してやまなかった。まず最初は、その興味は主にそれらを発射することにあった。私の最初の銃は、実際射撃用に作られた22口径のハイスタンダードリボルバーだった。アーカンソー州ベリービルの丘の上で、私は空き缶や切り株などをプリンキングしたものだった。あるいはリスやウサギをハンティングした。たいていはうまくいかなかったが。私は上手くやれるとは思わなかったが時として最高のシューティングタイムを過ごす事が出来た。
その22口径はやがて、ルガーブラックホークとスミス&ウェッソンモデル19 (どちらも357マグナムだが)に変わった。そしてこのマグナムと言うヤツについて全ての銃雑誌が諸手を挙げてこう評価していた-ロードゼムアップアンドシュートゼムホット(弾を込めたらアツく撃て)。そういうワケで私は弾を込めてアツく撃った。おかげで私のシューティングの進歩は何年も息を止めてしまったのである。だが今だに楽しい。
オクラホマ工業学校へ通っていた頃、私は家業である時計作りとジュエリー作りを学んでいた。私は銃をオクラホマに持って行った。典型的な貧乏学生であったので、かろうじて生きていけるだけであった。コールマンストーブを売って自分用の弾丸を確保した。小さなLEEローダーでそれを装填した。私は357口径のブラスカートリッジをいつも分類していなければならなかった。と言うのは、スミスの薬室はルガーのそれより大きかったからである。そして私はブラスカートリッジをフルレンクスにリサイズしなければならなかった。
私はシューティングに加えて、常に銃をいじくり回して修理しては実験を試みるタイプだったと告白しよう。軍の放出品のモーゼルや、エンフィールド銃は安くメイルオーダーでの入手が可能だった。そしてこれらをスポーツモデルに改造する事は私の大きな楽しみであった。
私は自分の分までもスポーツモデルに改造することがあった。とは言え今振り返ってみればそれはスポーツモデル化と言うよりもガラクタ化する例の方が多かったのではないかとの疑いもある。
大学から帰って家業の時計作りビジネスに加わった時、私は小さな銃とスポーツグッズの店を出そうと決心した。そしてまた、私は1つの大きな発見をした。ある人がいつもマグナムの装填に気をとられているのでなければ、センターファイアのリボルバーの射撃について学ぶ事はより簡単だと言うことに。
時計職人がピストルスミスに変わった
私は38スペシャルを発射することで大変勇気づけられた。これはそれ以前には決して私に起こることのなかった事だったのである。そして私は十分な金額を貯め6インチバレルのコルトパイソンを買った。
私はそのパイソンにフルワッドカッターを装填して打ち始めた。すると私の射撃の腕はドラマチックに上達していったのである。その必要があれば私は25ヤードでビールの缶をヒットさせることができた。そしてよりヘビーな弾薬を装填した場合にも、私の正確さは変わることがなかった。
私の銃イジリはこれまたドラマティックに上達していった。時計職人として訓練を受けた事は大きな財産だった。どんなときでも銃のパーツは巨大に感じられた。私はその時既に正確さのための必要性というものを理解していたし、複雑な機械のたったひとつの部品がすべての操作を変化させると言う道筋をも知っていた。
私は競技会に参加するようになって、射撃に関してより真剣なものを要求されるようになっていた。最も身近な競技会はPPCリボルバーシューティングだった。そして私は私のパイソンとワッドカッターの弾薬を使い始めた。私はPPC競技を続けるにあたって、スミス&ウェッソンをベースにしたヘビーバレルのリボルバーを使うようになっていった。そしてまもなく私はマスタークラスへステップアップした。PPC競技のたったひとつの問題は、退屈だと言うことだった。そして私はもっと他のことで銃を持つ手を擦り剥かせていた。
IPSCがスタート
1976年の終わり頃、私は違ったスタイルの射撃競技会がミズーリ州のコロンビアで始まったと聞いた。その競技会が開かれているクラブの名前はミッドウエストプラクティカルピストルリーグだった。ザ・インターナショナル・プラクティカル・シューティング・コンフェデレーション(アイピーエスシー)はその当時まだ形成されていなかった。しかし私はこれを聞いてPPCよりもかなり面白そうだと思った。私は所有していた唯一のオートマチック、ブローニングハイパワーを携えてコロンビアに赴き、試合で撃った。まさにこの瞬間から、私はプラクティカルシューティングの虜になってしまったのだ。
第二試合はリロードの必要がなかった。それで私はパイソンを取り出した。第3試合までに、私は初めてコルト45オートを取り出し、最初のショックを受けた。この箱から取り出したばかりのガバメントモデルは競技では使い物にならなかったのである。時として全くお話にならなかった。
そういうわけで、私はそれをひとくくりの荷物にまとめて、いくつかのベーシックワークを施すために、さるビッグネームのガンスミスの下に送った。その銃が帰ってきたとき、私は悲しいなんてもんじゃなかった。そして実際、私はその銃を売ってゴールドカップを買った。
今度の銃(ゴールドカップ)は、箱出しの状態でもトータルな信頼性があった。そして私がやった事は、新しいフロントサイトを取り付け、スピード・セフティ、マガジンウェルをベベルドタイプにし、ヘビーデューティータイプのリコイルスプリングを取り付けた事だ。私は1977年のデンバーでの国際大会まで、この特別なゴールドカップを撃ち続けた。この大会は私にとって14回目のものであった。
私は一般的な古い感覚にとらわれていた。つまり、私には新しい銃が必要だ、と感じていたのだ。しかしそれは重要なポイントから外れたことであったし、私はそうしなかった。私はまた別のガバメントモデルを1人のピストルスミスの元へ送った。そしてそれが帰ってきたとき、その銃のことを少しも好きになれなかった。
私は、もし私が時計を修理できるのならば、ジュエリーや腕時計の小さくて複雑なパーツを作ることができるならば、私はきっと私の好きなタイプの銃をきっと組み立てることができると思った。
それで、私は2番目のカスタムガバメントモデルを売って、キング・ガンワークスやアーマンド・スェンソンのパーツを山ほど注文した。そして完成したのが我々が今日120番型コンペティショングレードとして知る銃でなのである。
この銃は、まさに私が求めていたものだった。そしてよく当たった。私の2人の銃仲間が、この銃を見て気に入ってしまい、自分たちにもそれを作ってくれと私に頼んできた。私は次第により長い時間を銃の組み立てに費やすようになり、スポーツグッズの店のほうの経営や時計屋の商売にかける時間は短くなっていった。
飛び降りる
妻であるダーラと私は重大な決断に迫られていた。趣味のガンスミシングを商売としてフルタイムのものにステップアップさせるべきか?スポーティンググッズの店や時計作りはやめるべきなのか?
彼女の後押しもあって、私は思いっきりジャンプした。そしてそれは恐ろしいものだった。私たちには十分な資金はなかったし、高品質な45モデルを市場が受け入れる感触はまだなかったのである。パックマイヤーのような大きな店が、1年とか2年とか言うバックオーダーを抱えており、私は多くの新しいシューター達が、ピストルスミスと言う人たちがどうにも実際の射撃と言うものを理解していない、と嘆き悲しんでいるのを知っていた。嵐のような最初の1年半の間に、私は経営のトップと言える人たちから様々な助言を得た。
ジムクラークやアーマンドスェンソンといった人たちには特に助けられた。ケンハッカーソンは私に射撃の実際に関して重要なことを教えてくれたし、それらの重要な点をどう銃のモディフィケーションに応用するかと言う事について教えてくれた。
その1年半の終わりまでに私は馬車馬のように働いた。
皮肉なことに、成功は問題とともにやってきた。私は店を拡張する必要に迫られていたが、私はまたそういう拡張が良いガンスミシングショップにとって死のキスであることも理解していた。
幸いなことに、私は何人かの熟練した人々を見つけることができた。私と同じくクオリティーの高いワークマンシップを持った人々である。しかしながら彼らは45オートというものに親しみがなかった。私は彼らスタッフを私のスタイルにのっとったガンスミスとして訓練し、それに応えて彼らはよく働いてくれたので、私は必要に応じて仕事を増やすことができるようになった。
実際私は1人のシューターが、ショップから届けられる特定の銃について我々の誰がその仕事をしたかと言うことを言い当てることはできないと思う。我々がやるべき事は、その銃に関して仕事をする誰かの仕事のクオリティーのレベルを落とさないよう気を使うということである。
成長と繁盛
ウィルソンの店はプラクティカルシューティングに夢中な人々にとって、国の中でも大きな総合ショップの1つとなっていた。われわれは、大型のシングルポートを延長したチャンバーを持ったコンペンセイターという独特のスタイルとして、アキュコンプ・システムを発達させた。
ウィルソンのアキュコンプを搭載した45ACPを用いて、ロブ・レザムは1983年のIPSCナショナルを勝ち抜き、ワールドチャンピオンになった。そして1984年、これは雑誌アメリカンハンドガンナーによる"38スーパー・イヤー"の年だったが、ロブは彼のアキュコンプを45から38スーパーに持ち替えて、これは当時としてはかなり過激なアイデアだったのだが、アッと言う間に1984年のIPSCナショナルチャンピオンを獲得した。そして1985年のIPSCナショナル、さらに1986年再びワールドチャンピオンに輝いた。この歴史の始まりから、2つのワールドチャンピオンシップを獲得した男も、4つのナショナルチャンピオンシップを獲得した男も、皆ウィルソンのアキュコンプを使用していた。
そして遂に1988年、我々は長年にわたるコンペンセイターのドラマチックな進歩の形、ダブルポートエクスパンジョンチャンバーを発表する事となったのである。これは現在、ウィルソン・スーパーグレード・マッチピストルとして我々が提供しているものに他ならない。ダブルチャンバー・アキュコンプ・キットとしても知られている。
この新しく発達したデザインを持って、ロブ・レザムは5度目のナショナルタイトルを獲得した。彼の銃はウィルソン・スーパーグレード38スーパーだった。彼は1989年にもチャンピオンを獲得してその不動の地位を証明してみせた。この時の銃も彼自身所有の同じスーパーグレードであった。
ロブが遂にその宿敵、ジェリー・バーンハートにその冠を譲る事になった時、勝者の冠は再びその銃を見る事になる。お察しの通り、ウィルソン・スーパーグレード・38スーパーである。ジェリーは我々ウィルソン・コンバットのピストルの一つを選んだのであった。過激な新サイト、タスコの"レッドドット"の装着も我々の仕事である。
1990年になってもジェリー・バーンハートのタスコ・スコープを打ち破る者は競技シューティングに現れなかった。
アクセサリー・ビジネス
我々のカスタム・ガンスミシングに加えて、これは我々にとってパンとバターのようなものであるが、今やわれわれはジョンブローニングの驚くべき1911ピストルに関する独自のアクセサリーの幅広いバリエーションを提供している。この銃には、3つの種類のサイト、2つのスタイルのマッチトリガー、最高に正確な工作をなされたコマンダースタイルのハンマー、エクステンデッドエジェクタ、ウィルソン/ロジャースのステンレスマガジンの47セレクション、フレックスのガイドロットシステム、マガジンのBSパッド、ウィルソンビーバーテイルセフティ、グループグリッパー・キットなどが選択肢として用意されている。そして我々のフルカラーの新しいカタログを手に入れて欲しい。あなたの1911にとってベストなアクセサリーがウィルソンの店から提供される。
我々は自らをその"フルサービス"作戦において自負している。いかなる場所でも使える1911アクセサリーの最大の提供者として。我々はまた革製品をストックし、タイマーやクロノグラフ、クリーニング用サプライ、書籍、プラクティカル・シューターに必要な全てを取り揃えてある。そしてまた、我々は全員がシューターでもある。だからシューターに何が必要か、良いアイデアがあるのです。
この本は実際、プラクティカル・シューターの必要に応じた反応として書かれました。我々の以前のベストセラー作、"ザ・コンバット45"の完全なアップデート版です。
我々はあなたがプラクティカル・シューターである事を喜びに感じながら、あなたにお届け出来るモディフィケーションとアクセサリーの少しでも良い形を目指して参ります。
ちゃんとしたターゲット使ってる?
テキトーな紙に丸描いてみたり、段ボールとか。それもいいけど、やっぱ印刷したターゲットは気分がいい。何よりキチンと結果が評価できるから励みになる。
WSC Yahoo!ショッピング店では大判A2マン・ターゲット10枚を800円で提供させていただきます。420×594mmのフルサイズだから迫力満点、スリリングなコンバットシューティング体験が楽しめます!
A4ブルズアイFreeDownloadも続行中!
WSC Yahoo!ショッピング店でFreeDownload‼︎←クリック

コンバット・シューティング練習用大判マンターゲットあります。よろしければご覧ください
既に2章カスタム・コンセプト(カテゴリー・カスタムガン、2014/2/6掲載)、3章コンバットピストル(カテゴリー・カスタムガン、2017/5/30掲載)も訳出してありますから、合わせてご一読下さい。

ザ・ビギニング /ビル・ウィルソン
ハンドガンは常に私を魅了してやまなかった。まず最初は、その興味は主にそれらを発射することにあった。私の最初の銃は、実際射撃用に作られた22口径のハイスタンダードリボルバーだった。アーカンソー州ベリービルの丘の上で、私は空き缶や切り株などをプリンキングしたものだった。あるいはリスやウサギをハンティングした。たいていはうまくいかなかったが。私は上手くやれるとは思わなかったが時として最高のシューティングタイムを過ごす事が出来た。
その22口径はやがて、ルガーブラックホークとスミス&ウェッソンモデル19 (どちらも357マグナムだが)に変わった。そしてこのマグナムと言うヤツについて全ての銃雑誌が諸手を挙げてこう評価していた-ロードゼムアップアンドシュートゼムホット(弾を込めたらアツく撃て)。そういうワケで私は弾を込めてアツく撃った。おかげで私のシューティングの進歩は何年も息を止めてしまったのである。だが今だに楽しい。
オクラホマ工業学校へ通っていた頃、私は家業である時計作りとジュエリー作りを学んでいた。私は銃をオクラホマに持って行った。典型的な貧乏学生であったので、かろうじて生きていけるだけであった。コールマンストーブを売って自分用の弾丸を確保した。小さなLEEローダーでそれを装填した。私は357口径のブラスカートリッジをいつも分類していなければならなかった。と言うのは、スミスの薬室はルガーのそれより大きかったからである。そして私はブラスカートリッジをフルレンクスにリサイズしなければならなかった。
私はシューティングに加えて、常に銃をいじくり回して修理しては実験を試みるタイプだったと告白しよう。軍の放出品のモーゼルや、エンフィールド銃は安くメイルオーダーでの入手が可能だった。そしてこれらをスポーツモデルに改造する事は私の大きな楽しみであった。
私は自分の分までもスポーツモデルに改造することがあった。とは言え今振り返ってみればそれはスポーツモデル化と言うよりもガラクタ化する例の方が多かったのではないかとの疑いもある。
大学から帰って家業の時計作りビジネスに加わった時、私は小さな銃とスポーツグッズの店を出そうと決心した。そしてまた、私は1つの大きな発見をした。ある人がいつもマグナムの装填に気をとられているのでなければ、センターファイアのリボルバーの射撃について学ぶ事はより簡単だと言うことに。
時計職人がピストルスミスに変わった
私は38スペシャルを発射することで大変勇気づけられた。これはそれ以前には決して私に起こることのなかった事だったのである。そして私は十分な金額を貯め6インチバレルのコルトパイソンを買った。
私はそのパイソンにフルワッドカッターを装填して打ち始めた。すると私の射撃の腕はドラマチックに上達していったのである。その必要があれば私は25ヤードでビールの缶をヒットさせることができた。そしてよりヘビーな弾薬を装填した場合にも、私の正確さは変わることがなかった。
私の銃イジリはこれまたドラマティックに上達していった。時計職人として訓練を受けた事は大きな財産だった。どんなときでも銃のパーツは巨大に感じられた。私はその時既に正確さのための必要性というものを理解していたし、複雑な機械のたったひとつの部品がすべての操作を変化させると言う道筋をも知っていた。
私は競技会に参加するようになって、射撃に関してより真剣なものを要求されるようになっていた。最も身近な競技会はPPCリボルバーシューティングだった。そして私は私のパイソンとワッドカッターの弾薬を使い始めた。私はPPC競技を続けるにあたって、スミス&ウェッソンをベースにしたヘビーバレルのリボルバーを使うようになっていった。そしてまもなく私はマスタークラスへステップアップした。PPC競技のたったひとつの問題は、退屈だと言うことだった。そして私はもっと他のことで銃を持つ手を擦り剥かせていた。
IPSCがスタート
1976年の終わり頃、私は違ったスタイルの射撃競技会がミズーリ州のコロンビアで始まったと聞いた。その競技会が開かれているクラブの名前はミッドウエストプラクティカルピストルリーグだった。ザ・インターナショナル・プラクティカル・シューティング・コンフェデレーション(アイピーエスシー)はその当時まだ形成されていなかった。しかし私はこれを聞いてPPCよりもかなり面白そうだと思った。私は所有していた唯一のオートマチック、ブローニングハイパワーを携えてコロンビアに赴き、試合で撃った。まさにこの瞬間から、私はプラクティカルシューティングの虜になってしまったのだ。
第二試合はリロードの必要がなかった。それで私はパイソンを取り出した。第3試合までに、私は初めてコルト45オートを取り出し、最初のショックを受けた。この箱から取り出したばかりのガバメントモデルは競技では使い物にならなかったのである。時として全くお話にならなかった。
そういうわけで、私はそれをひとくくりの荷物にまとめて、いくつかのベーシックワークを施すために、さるビッグネームのガンスミスの下に送った。その銃が帰ってきたとき、私は悲しいなんてもんじゃなかった。そして実際、私はその銃を売ってゴールドカップを買った。
今度の銃(ゴールドカップ)は、箱出しの状態でもトータルな信頼性があった。そして私がやった事は、新しいフロントサイトを取り付け、スピード・セフティ、マガジンウェルをベベルドタイプにし、ヘビーデューティータイプのリコイルスプリングを取り付けた事だ。私は1977年のデンバーでの国際大会まで、この特別なゴールドカップを撃ち続けた。この大会は私にとって14回目のものであった。
私は一般的な古い感覚にとらわれていた。つまり、私には新しい銃が必要だ、と感じていたのだ。しかしそれは重要なポイントから外れたことであったし、私はそうしなかった。私はまた別のガバメントモデルを1人のピストルスミスの元へ送った。そしてそれが帰ってきたとき、その銃のことを少しも好きになれなかった。
私は、もし私が時計を修理できるのならば、ジュエリーや腕時計の小さくて複雑なパーツを作ることができるならば、私はきっと私の好きなタイプの銃をきっと組み立てることができると思った。
それで、私は2番目のカスタムガバメントモデルを売って、キング・ガンワークスやアーマンド・スェンソンのパーツを山ほど注文した。そして完成したのが我々が今日120番型コンペティショングレードとして知る銃でなのである。
この銃は、まさに私が求めていたものだった。そしてよく当たった。私の2人の銃仲間が、この銃を見て気に入ってしまい、自分たちにもそれを作ってくれと私に頼んできた。私は次第により長い時間を銃の組み立てに費やすようになり、スポーツグッズの店のほうの経営や時計屋の商売にかける時間は短くなっていった。
飛び降りる
妻であるダーラと私は重大な決断に迫られていた。趣味のガンスミシングを商売としてフルタイムのものにステップアップさせるべきか?スポーティンググッズの店や時計作りはやめるべきなのか?
彼女の後押しもあって、私は思いっきりジャンプした。そしてそれは恐ろしいものだった。私たちには十分な資金はなかったし、高品質な45モデルを市場が受け入れる感触はまだなかったのである。パックマイヤーのような大きな店が、1年とか2年とか言うバックオーダーを抱えており、私は多くの新しいシューター達が、ピストルスミスと言う人たちがどうにも実際の射撃と言うものを理解していない、と嘆き悲しんでいるのを知っていた。嵐のような最初の1年半の間に、私は経営のトップと言える人たちから様々な助言を得た。
ジムクラークやアーマンドスェンソンといった人たちには特に助けられた。ケンハッカーソンは私に射撃の実際に関して重要なことを教えてくれたし、それらの重要な点をどう銃のモディフィケーションに応用するかと言う事について教えてくれた。
その1年半の終わりまでに私は馬車馬のように働いた。
皮肉なことに、成功は問題とともにやってきた。私は店を拡張する必要に迫られていたが、私はまたそういう拡張が良いガンスミシングショップにとって死のキスであることも理解していた。
幸いなことに、私は何人かの熟練した人々を見つけることができた。私と同じくクオリティーの高いワークマンシップを持った人々である。しかしながら彼らは45オートというものに親しみがなかった。私は彼らスタッフを私のスタイルにのっとったガンスミスとして訓練し、それに応えて彼らはよく働いてくれたので、私は必要に応じて仕事を増やすことができるようになった。
実際私は1人のシューターが、ショップから届けられる特定の銃について我々の誰がその仕事をしたかと言うことを言い当てることはできないと思う。我々がやるべき事は、その銃に関して仕事をする誰かの仕事のクオリティーのレベルを落とさないよう気を使うということである。
成長と繁盛
ウィルソンの店はプラクティカルシューティングに夢中な人々にとって、国の中でも大きな総合ショップの1つとなっていた。われわれは、大型のシングルポートを延長したチャンバーを持ったコンペンセイターという独特のスタイルとして、アキュコンプ・システムを発達させた。
ウィルソンのアキュコンプを搭載した45ACPを用いて、ロブ・レザムは1983年のIPSCナショナルを勝ち抜き、ワールドチャンピオンになった。そして1984年、これは雑誌アメリカンハンドガンナーによる"38スーパー・イヤー"の年だったが、ロブは彼のアキュコンプを45から38スーパーに持ち替えて、これは当時としてはかなり過激なアイデアだったのだが、アッと言う間に1984年のIPSCナショナルチャンピオンを獲得した。そして1985年のIPSCナショナル、さらに1986年再びワールドチャンピオンに輝いた。この歴史の始まりから、2つのワールドチャンピオンシップを獲得した男も、4つのナショナルチャンピオンシップを獲得した男も、皆ウィルソンのアキュコンプを使用していた。
そして遂に1988年、我々は長年にわたるコンペンセイターのドラマチックな進歩の形、ダブルポートエクスパンジョンチャンバーを発表する事となったのである。これは現在、ウィルソン・スーパーグレード・マッチピストルとして我々が提供しているものに他ならない。ダブルチャンバー・アキュコンプ・キットとしても知られている。
この新しく発達したデザインを持って、ロブ・レザムは5度目のナショナルタイトルを獲得した。彼の銃はウィルソン・スーパーグレード38スーパーだった。彼は1989年にもチャンピオンを獲得してその不動の地位を証明してみせた。この時の銃も彼自身所有の同じスーパーグレードであった。
ロブが遂にその宿敵、ジェリー・バーンハートにその冠を譲る事になった時、勝者の冠は再びその銃を見る事になる。お察しの通り、ウィルソン・スーパーグレード・38スーパーである。ジェリーは我々ウィルソン・コンバットのピストルの一つを選んだのであった。過激な新サイト、タスコの"レッドドット"の装着も我々の仕事である。
1990年になってもジェリー・バーンハートのタスコ・スコープを打ち破る者は競技シューティングに現れなかった。
アクセサリー・ビジネス
我々のカスタム・ガンスミシングに加えて、これは我々にとってパンとバターのようなものであるが、今やわれわれはジョンブローニングの驚くべき1911ピストルに関する独自のアクセサリーの幅広いバリエーションを提供している。この銃には、3つの種類のサイト、2つのスタイルのマッチトリガー、最高に正確な工作をなされたコマンダースタイルのハンマー、エクステンデッドエジェクタ、ウィルソン/ロジャースのステンレスマガジンの47セレクション、フレックスのガイドロットシステム、マガジンのBSパッド、ウィルソンビーバーテイルセフティ、グループグリッパー・キットなどが選択肢として用意されている。そして我々のフルカラーの新しいカタログを手に入れて欲しい。あなたの1911にとってベストなアクセサリーがウィルソンの店から提供される。
我々は自らをその"フルサービス"作戦において自負している。いかなる場所でも使える1911アクセサリーの最大の提供者として。我々はまた革製品をストックし、タイマーやクロノグラフ、クリーニング用サプライ、書籍、プラクティカル・シューターに必要な全てを取り揃えてある。そしてまた、我々は全員がシューターでもある。だからシューターに何が必要か、良いアイデアがあるのです。
この本は実際、プラクティカル・シューターの必要に応じた反応として書かれました。我々の以前のベストセラー作、"ザ・コンバット45"の完全なアップデート版です。
我々はあなたがプラクティカル・シューターである事を喜びに感じながら、あなたにお届け出来るモディフィケーションとアクセサリーの少しでも良い形を目指して参ります。
ちゃんとしたターゲット使ってる?
テキトーな紙に丸描いてみたり、段ボールとか。それもいいけど、やっぱ印刷したターゲットは気分がいい。何よりキチンと結果が評価できるから励みになる。
WSC Yahoo!ショッピング店では大判A2マン・ターゲット10枚を800円で提供させていただきます。420×594mmのフルサイズだから迫力満点、スリリングなコンバットシューティング体験が楽しめます!
A4ブルズアイFreeDownloadも続行中!
WSC Yahoo!ショッピング店でFreeDownload‼︎←クリック

コンバット・シューティング練習用大判マンターゲットあります。よろしければご覧ください
